書の見方


6日の日経の夕刊に「書」についての見方について
書かれていました。
なかなか「書」の鑑賞について書かれている記事って、
少ないので、思わず、食い入るように読んでしまいました。

「書」って、文字を使っていることが多いので、
どうしても読みたいという欲求があるのですよね~(> <)

色々、「書」の鑑賞の仕方があるとは思うのですが、
私は絵画を見たり、音楽を聴いたりするのと同じで、
見た作品を好きか嫌いか、家に飾ってみたいか、
どんなところに飾ってあったり、流れていたら、
素敵だな~と想像したりするのも、鑑賞の仕方かな??
と思ったりします。
まぁ、一つの鑑賞の仕方ですけどね。
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【書を見る、文字を聴く  橋本 麻里】
日経夕刊2016.8.6 4面

世間では「日本美術ブーム」
とともてはやされているが、
1日30品目の指針ではあるまいし、
みな絵画、書、彫刻、工芸ひととおり
のジャンルをバランスよく
見ているのだろうか。
そうであるまい。私はこの世界には
実は「偏食」が多いと睨んでいる。
 たとえば伊藤若冲の絵の前に立ったとき、
私たちは描かれた主題や美術
史的な背景を完全に理解してないくても、
全体の構図を眺め、そのバランスや
色彩の調和、あるいはモチーフと
なっている動植物がどのようデフォルメ
されているか、そうした描き方を
通じて絵師は何を表現しよう
としているのか、
自分なりの感想を持ち、
好き嫌いや出来の良し悪しを
判断することができる。
 ところが絵画や彫刻を熱心に
見ている観客も、書に対すると、
突然それができなくなる。
絵画も工芸も書も盛り込まれた
展覧会の、書の展示スペースで何となく
足早になった覚えのある方
もおられるであろう。私たちの実生活のなかで、
大量の文字情報を摂取し、
自らも文字を生産し、
日々文字に親しんでいる。
だが相手が毛筆の書+変体仮名となると、
途端に読解の歯が立たなくなる。
絵画や彫刻についてなら、
わからない部分があっても
それはいったん棚上げに
して、「わかる部分だけ楽しむ」
マインドになれるのに、こと文字が相手と
なると、使いこなしている道具が一転して
自分に牙を剥くように感じられる
のか、「読めない」だけで、
心のシャッターを下ろしてしまう人
が少なくない。
・・・・・とここまではすべて、
私の体験と実感に基づいている。
要するに私自身が長らく、
書を同環礁すればいいのかわからず、
敬して遠ざける人間
だったのだ。
 ところがある時、「いや、意外と書もイケるかも」
という劇的な回心の
瞬間がやってくる。忘れもしない、
五島美術館所蔵の「高野切(第一種)」を
見ていた時のことだ。高野切とは
現存する最古の「古今和歌集」の写本の
通称。麻紙に雲母砂子を散らした料紙に、
2文字以上続けて書く連綿体で
歌を散らし書きした、平安時代の
かなの最高峰とされる作品だ。3人が
分担して書いたと考えられ、
その書風を第一種から第三種までに分けている。
中でも力量が抜きんでていると
衆目が一致するのは、第一種の書き手だろう。
 この作品の前で、私は一人の人間の「声」、
もっといえば「歌」を聴く
ような気分になっていた。
そもそも左右対称で四角四面な漢字と
その文化に対するカウンター
カルチャーとして生まれたために、
非対称で中心の心の取りづらいかなは、
「連綿」という表意文字のかたまりが
視覚的に意味を支え、グラフィカルな
「散らし」によって、失った話し言葉の
抑揚やリズム、身振りが再現される。
声を還ろうとする志向を含んだ文字
であるからこそ、その前に立つと、書写
された和歌が、個人の肉声、
あるいは歌唱のように、遠く近く響いてくる
ように感じられるのだ。
読み書きのできない外国語でも、
それが音楽に乗ると、
似ているかもしれない。より視覚的な干渉に
立ち戻れば、いきなり「読む」
ことを求めるのではなく、
絵と同じ感覚で形態や濃淡、
線の速度などを意識
しながら「眺める」だけでも、
かなり濃厚に書を味わえる。
食わず嫌いは
もったいない。ぜひ絵や彫刻だけでなく、
書にも箸を伸ばして、味わってほしい。

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